その薬、劇薬につき

 

 完全に、しくじった。


 硬いコンクリートの床と、そこに転がされた私の身体が擦れる音がざり、と鼓膜に響く。薄暗く、カビ臭い物置と思われる場所で、私の意識はゆっくりと再編成された。

 ズキズキと首根っこが痛むのは、恐らく不意を突かれてあてがわれたスタンガンのせい。神羅から持ち出した技術を転用して密造される薬物を追って潜入していたターゲットのアジトで、別動隊の神羅兵に裏切られ、あっという間に身柄を拘束されてしまった。すぐに殺されなかったのは、不幸中の幸い。ただ、意識を取り戻した私に待ち受けているのは、きっと取り調べという名の拷問だろう。
 地面に倒れ行く私をスタンガンを片手に薄ら笑いで見下ろしていた神羅兵を思い出して、ちりちりと焼け付くような怒りが腹の底で燃える。あいつ、絶対に許さない……。タークスに、神羅に反旗を翻した人間がどんな報いを受けるのか、必ず思い知らせてやる……なんて、お礼参りを誓ったところで先ずはこの状況を何とかしければいけない。後ろで一纏めに拘束された腕をどうにかしようと試みたところで、気付いた。意識はハッキリと覚醒しているというのに、身体を思うように動かすことができない。

「ぅう……っ」

 だらり、と口端から自身の唾液がだらし無く滴り落ちるのがわかる。……これは、スタンガンによる電撃の痺れではない。私はこの痛覚が残りつつも、運動系の神経に障害が生じ、意識についてはハッキリと覚醒する不可解な現象について嫌というほど覚えがあった。
 不意にギィ、と不快な音を立て開かれた扉から真っ直ぐに伸びた光が私を照らした。

「おい、起きたか裏切り者」

 電灯の光を背負ったその男の顔は良く見えなかったけれど、潜入調査中に嫌と言うほど聞いた粘っこい声のお陰ですぐに誰か分かった。この密造グループのアタマだ。
 デカい身体と態度を体現するかのような煩い足音が私の直ぐそばまで近付いて来たかと思うと、胸倉を掴まれて私の半身は宙に浮いた。ぐい、と胸倉を引き寄せられ相手の顔面が眼前に迫る。生暖かい息が頬を撫でる感覚にぞくり、と肌が粟立つ。殴られるよりよっぽど不快。

「随分長い間俺たちのこと嗅ぎ回ってくれたみてぇだな。」
「……い」
「ん?」
「くさ、……い……」

 自由に回らない舌で何とか言葉を紡いだその瞬間、振りかぶった男の右手が私の頬を強くはたいた。いや、殴ったと言った方が正しい衝撃だった。ぐらり、と視界が大きく揺れて、意識を取り戻した時と同じようにコンクリートの地面にザリザリと音を立てて私の身体はまた転がった。口の中に鉄の味がいっぱいに広がり、コンクリートに打ち付けた頬が火をつけたように熱を帯びて痛んだ。

「ふん、強がってろ。俺達が作ったその薬の効果は一朝一夕には解けないからな」

 薬という単語に疑念が確信に変わった。ここで密造された薬物を、伸びている間に盛られたのだ。あれは、とても恐ろしい薬だ。少量の経口摂取でこの効き目。生かさず殺さずの絶妙な効果で相手を無力化することが出来る。何よりも恐ろしいのは、エスナや万能薬を持ってして治療が出来ない、という点だ。解毒に必要なのは同時に開発された錠剤薬のみ。この魔法を無効にする効果こそ、神羅から盗んだ技術が転用されている最も悪しき部分だった。

「丁度いい、テメェらの情報搾り取るまで治験体にしてやる」

 下卑た笑みが薄暗闇に浮かぶ。ぐい、ともう一度胸倉を掴まれて持ち上げられた視界に映った姿に私は思わず自由の利かない顔でぎこちない笑みを作った。そこに立つ男の背後に差し込む電灯の光が、先程とはまるで変わって後光の様に見えた。「何笑って……」と言いかけて男はゴッ、という鈍い打撃音と共に脱力して地に伏せた。

「待たせた」

 男を殴り付けた拳にはめたレザーグローブを直しながら、サングラスをかけた巨漢……もといルードが地に伏せた男の両腕を慣れた手つきで背中で一纏めにして拘束具で自由を奪う。続けてルードの後ろから「遅くなった悪ィ」と床に転がった男を足で避けながら足早にカツカツと革靴を鳴らしてレノが私の元へと近付いてくる。数ヶ月ぶりの彼らの姿に、思わず目の奥が熱くなる。思ったよりもずっと早く駆けつけてくれた。これも、発信器付きピアスの異常アラートのお陰だ。神羅の技術サマサマ。本当なら飛び上がって2人に感謝を伝えたいところだけれど、私の感情とは裏腹に体が言うことを聞かずだらりと男と同じ様にコンクリートに倒れ込んでしまう。

「おい!」

 電光石火の様なスピードでレノが駆け寄り、倒れ込む私を抱えてくれたお陰で覚悟した衝撃は訪れなかった。代わりに、ほとんど密着した状態の彼の胸元から香水の香りが普段よりも色濃く、鼻をかすめた。密かに、私が好んでいる香り。
 私の身体を支えて、顔を覗き込んだレノが眉間に深い皺を寄せる。「痛かったろ」と言いながらその場で直ぐに発動してくれたケアルのお陰で、頬の痛みがすっと消える。レノの手に握られたマテリアから溢れる淡い光が心地良いのに、身体は変わらず動かない。

「ルード。なまえ、例の薬盛られてるっぽいぞ、と」

 腕の中で脱力したままの私を見て、レノは私の頬を汚していたであろう土埃をスーツの裾で拭ってくれた。こんなにも精神は元気いっぱいなのに、身体だけ動かないというのはなんとも不思議な感覚で、笑えるものなら声を出して笑いたかった。

「……おい、大丈夫かよ」

 言うことを聞かない表情筋のせいで中途半端な不気味な笑みを浮かべていただろう私を見て、なんとも神妙な顔で私の顔を覗き込んでいた。ぶん殴られて薬を盛られてニヤついていたら、そりゃ心配にもなるだろう。なんて、レノの心配を他所にこんな事を考えている自分が可笑しくてたまらない。身体の自由が効かず、感情すら表現出来ないことがこんなに辛いものなのかと身をもって痛感していた。
 そんな状態の私に構わず、近付いてきたルードが後ろ手に拘束していた腕を解いてくれた。途端にずるりと腕は重力に従って落ちて、抱えられたレノの腕からだらりとぶら下がる状態となった。鉛のように重い腕には、感覚が殆どない。拘束を解かれても自力で起き上がるのは無理そうだ。

「マジで効き目スゲェな。エスナ、効かないんだっけか?」
「……治療薬が、ある筈だ」
「あぁ、そうだな。さしずめそいつが隠し持ってんだろ」
 
 流石、2人とも話が早い。そのありがたさに涙が出そうになった。対となる薬が男の襟元に隠してあることを知らせたくて、私は上手く動かせない唇を動かして何とか意思疎通を試みる。パクパクと水辺の鯉の様に唇を動かして、千切れちぎれに発話すれば、床に転がっている虫の息の男からルードが小さなピルケースを見つけ出してくれた。

「よく分かったな」
「……勘だ」

 蓋の開いたそれをレノがルードから受け取り、錠剤を掌の上にいくつか取り出す。それを私の半開きになった口内に1粒押し込むも、大きめのそれを嚥下する力すら私には残っておらず、口内に滞留したままとなった。

「ダメだ、飲み込まねぇ」

 どうするか、とレノは少し考え込んでから、ちらりと隣に立つルードに何か意図を含んだ視線を投げる。何かを察知して、ルードは小さく咳払いをした。気になるけれど、長年のコンビにしか伝わらない意思疎通がそこでなされた。

「……なまえは任せた。俺はこの男を輸送機に運んで、救護隊を呼ぶ」

 そう言って伸び切った男を引き摺りながら部屋の外へとへと向かう。部屋を出て行くルードの背中を見送り、倉庫に取り残される私とレノ。さて、と口にしてレノは唐突に私の顎を掴んで上を向かせた。突如として視界いっぱいに目の覚める様な赤色が飛び込む。

「んじゃ、コレ飲ませるけど後で怒るなよ、と」

 そう言って何故かわたしが飲まなければいけない錠剤をレノが自身の口に含む。まって、それってつまり……?
 まさか、と思いつつ動揺する心を落ち着かせる。何を焦っているんだ、なまえ。これは、あくまで解毒の為に必要な行動なのだ。他意は、ない。そう自身に言い聞かせるも、目の前に広がる端正な男の顔と、この後に起きる出来事を予感して心臓は早鐘を打ち続けて治る気配はなかった。

 そんな私の気持ちなど知る由もなく、レノの整った綺麗な顔が更に近付いてくる。視界いっぱいに広がる、翡翠の瞳。ふわりと香った、煙草の匂いにくらりとする。心の準備が……!という意思表示の為にぱちぱちと目を瞬かせるもその努力は虚しく。薄く開いた私の唇を覆うように彼の弾力のある唇が重なって、ぬるり、と侵入して来る感触。

「ん……っ!」

 くぐもって、熱っぽい声が鼻から抜けるのが恥ずかしい。舌先が器用に私の舌の上に乗せた錠剤を押し潰すようにして口腔内へ押し込まれる。どちらのものかわからない唾液でじんわりと溶け始めた錠剤から、苦いような酸っぱい様な独特の風味が口いっぱいに広がった。
 それでも尚うまく嚥下できない大粒のそれを飲み込ませるために、レノの舌が喉の奥まで入り込む。息苦しさから、生理的な涙が滲んで、飲み込めずに溢れた唾液が口の端を伝って零れ落ちる。反射的にえづきながらも、ようやくそれを喉の奥へと流し込んだ。

 私が薬を飲み込んだことを確認すると押し込まれた舌が引き抜かれ、唇に押し当てられていた熱が離れて行った。ふはっ、と解放された口から空気を取り込む。これも神羅の技術の賜物か、即効性があるようで身体にじんわりと感覚が戻ってくるのを感じた。

「うぇっ、ゲホッ…うぅ……まっずい……」
「お?もう効き始めてるみたいだな」

 ぺろりと自らの唇を舐めた彼が、手の甲で濡れた口元を拭いながら満足げにニヤリと笑った。その仕草が妙に色っぽくて、私の顔に全身の血液が集まって行く心地がする。胸がぎゅっと締め付けられて痛い。なんなんだ、この胸の動悸は。何事もなかったかのように、平然と振る舞う目の前の男の思考回路はいったいどうなっているんだ?私が意識し過ぎなの……?振り回されているような気がして、混乱した頭では処理しきれない感情を持て余しながら、私は平静を装うことに努めた。

「副作用かな……」

 きっと薬のせいじゃないけれど、治らない胸の鼓動を誤魔化すためにまだ少し痺れる指先を開いたり閉じたり。足先が思うように動くか意識を向ける。あ、まだ歩くのは無理。それから別働隊の神羅兵の事も報告しなければ……。努めて淡々と報告事項をレノに伝えれば、真面目な話をしていると言うのに私の様子を見守るレノが突然吹き出した。一体何事だと腕の中から彼を見上げれば、愉快そうな表情を浮かべて彼は笑っていた。

「お前ほんと、そういうところあるよな」

 そう言って、笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を拭う。意味がわからない。どういうこと?と問いただせば、今度は大きなため息と共に呆れた顔を向けられる。そのまま伸びてきた手が私の髪に触れ、耳にかけられていた髪を後ろへ流される。露わになった頬の擦り傷を撫ぜるように触れられ、思わず肩が小さく跳ねてしまって、それを見てまた笑う。

「……俺のこと好きなの、隠せてねぇんだよ」
「……へ?」

 予想外の言葉が返ってきて間抜けな声が出た。今なんて言った?好き?誰が、誰を??私の反応を見て、今度は堪え切れずといった様子で肩を揺らしていた。

「ああでもしないと、自覚しなさそうだし、お前。まあちょっとやりすぎたかなとは思うけど」

 ケラケラと笑いながら話す男の顔を、馬鹿みたいに口を開けて見守る。……ちょっと待って。じゃあ、解毒の為のあの行為は全部わざとだったっていうの? ぐるぐると、疑問符ばかりが脳内を巡るも一時前の行為をを思い返してみると、やはり薬効とは異なる動悸が襲って来て、レノの主張に対して「ちがう!」と真っ向から否定の言葉を叫ぶことが出来なかった。突如として自覚させられた感情に、あまりの衝撃に頭を抱えてしまった私を見て、レノが再び楽しそうに笑う。やられた。完全にしてやられたのだ。こうなるとわかっていて、彼はわざわざ、口付けをしたんだ。

「に、任務中なんですけど……」

 上長に、報告するから……!となんとか絞り出した言葉と共に恨みがましい視線を送るも、全く効果はない。むしろ私の反応を楽しむように目を細めて余裕の笑みを浮かべるレノを見ると、余計に羞恥心が増して何も言えなくなってしまった。

「ま、否定もしないことだし。次からはもっとわかりやすくアプローチかけていくから、覚悟しろよ、と」

ちゅ、と額に触れた柔らかな感触。一瞬何をされたのか理解できず固まっている間に、バタバタと担架を押して部屋に駆け込んで来た救護隊と入れ替わる様に彼は真っ赤な尻尾を揺らしながら扉の向こうへと消えていってしまった。

「ルードォ!今日は俺の奢りだぞ、と」

 扉の向こうからレノの上機嫌な声が反響して耳に届く。2人が交わした意味深なアイコンタクトを思い出して、私は恐らく真っ赤になった顔を両手で覆うことしかできなかった。ルードにも筒抜けだったのだ、私自身が自覚していなかったこの感情は。
 駆けつけた救護隊員に担架に乗せられながら、私はどんな顔でオフィスに帰ればいいんだろうと額に残る熱にまたもや胸中を掻き乱されつつ、頭を抱えた。

「……なまえさん、大丈夫ですか?脈が早いみたいなので、鎮静剤を投与しますが」

 救護隊員にさえもトドメを刺され、去っていった赤髪の男を呪いながら、私はその申し出をやんわりと断った。



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